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February 12 追憶の旅 僕たちの時代にも不登校はあった。でも精神的抑圧による不登校ではなかった。ほとんどの家が極貧にあえいでいた戦後の十年間は家の商売の手伝いなどで不登校せざるを得なかった子供たちはたくさんいた。たくさんと言っても一学級で二名程度であった。それでも全校規模で計算すると五十人位にはなっていた。
当時の不登校生はさほど暗い顔はしていなかった。親の店や仕事を手伝うので、自分が役に立っているのが解ったし、何よりも親が喜ぶ顔を見れるのが嬉しかったから。一番かわいそうだったのが米軍の空襲によって両親をなくし孤児院から小学校、中学校に通っていた男女の生徒たちだった。あの人たちは今どうしているのだろうか。僕の友達にも男女合わせて数人の戦災孤児がいた。
特に一人の女の子と一人の男の子はとても頭がよかった。女の子は男子生徒を抑えて、いつもトップの成績だった。しかも群を抜く美貌の持ち主。中学校を卒業した後は炭鉱会社に就職した。高校はおろか一流の大学にも行ける資質を持っていた彼女が高校進学をあきらめざるを得なかった無念さは、今でも察して余りある。
中学校を卒業した後、孤児院を出た男の子は刻苦勉励して海上保安大学校にゆきました。
孤児院の子供たちは中学校までは行かせてもらえたが高校以上はだめだった。 戦後の十年は多くの才能ある男女の中学校生徒が無念の涙を呑んで、工場の一労働者として姿を消していった。あれから数十年が過ぎた今、ただ彼女の幸せを祈るだけである。当時の僕たちも彼女を助けることが出来なかった。無念の思いが今も残る。 -続く-
February 09 追憶の旅 このほかにも学校を休んだことが何回もあった。ある年、家の事情で一ヶ月ほど学校に行けなくなった。このようなことはちょくちょくあったのでどうと言う事はなかったが、この一ヶ月の間に算数の割り算の授業があった。一ヶ月が終わって学校に戻ったとき、この割り算が出来なくて本当に参ってしまった。
僕は割り算の仕方を両親に教えてくれとはいわなかった。両親は朝から晩まで飲食店の仕事で働きずくめ。夜の十二時過ぎに看板をしまって閉店すると倒れるように寝込んでしまう両親。朝は十時ころしか起きない両親には割り算を僕に教える時間などなかった。僕が割り算を勉強する方法は学校で友達が割り算をしているのを傍で眺めながら覚えてゆく方法だった。割り算が出来るまでに数ヶ月もかかった。それで算数の試験はとても成績が悪かった。そして算数が嫌いになった。
まもなく中学校に進んだが数学の成績は相変わらず悪い。一次方程式では割り算が出来ないと、X=?の答えが得られない。そのため逆に数学にこだわり始めた。数学というのは形も色も匂いもない抽象的なものだけに組織的な思考力が必要だった。このため数学には何かしら他の教科より高級感があった。この高級感のために数学の成績が悪くても数学にはいつも関心があった。
このような経験をしたからかどうかは解らないが、後年、大学は理数系の大学に進んだ。今でも数学にはコンプレックスがあり、ちょっと解らない数学の問題を眼にすると、ついつい引き込まれていってしまう。もう一度、算数の勉強をやり直したいと時々思うことがある。これはもうトラウマになってしまっている。 -続く- November 29 追憶の旅水天宮のお祭りがあると、終戦後、外地から引き揚げてきたときに持ってきた大きな革製のトランクにゆで卵を一杯つめて、それに塩を小分けにして新聞紙に包んで、これもトランクに入れて自転車に積んで、水天宮の神社の前の広場に持って行き、ゆで卵の販売をしたので、いつも遅刻して教室に入っていたことのほかに、祭りの10日間ほどは学校に行けず、長期欠席児童に近い状態になってしまった。 水天宮祭で卵を売るには、長い竹竿を6本ほど持って行き、これを立てて、大きな布で屋根を作り、電線と裸電球をつないで照明もセットしなければならなかった。何がきついといって、竹竿6本を自転車にくくりつけて家から水天宮まで運ぶきつさは今でも忘れられない。小学校6年生だったので大人用の自転車は「横のり」しなければ乗れなかった。 やがて夕方が訪れて裸電球を点灯するころには小学校の友達が水天宮に遊びに来たが僕を目ざとく見つけて見つけて「あっ、ウラシマが居た」と素っ頓狂な声をあげた。僕は「おい、卵を2,3個買ってゆけ」と横柄な態度で命令した。大概の同級生は1個くらいは買ってくれた。それに僕はまだ小学生だったので周りの出店の小父さんおばさんに較べてよく目立ったせいか100個以上持ってきたゆで卵はいつも完売だった。水天宮の境内に集まってくる大人たちの同情が有ったのではないかと思っている。 不思議なことにゆで卵を売りながら同級生に会っても劣等感などは少しも沸いてこなかった。逆に半分威張っていたように思う。それに売り上げた卵の代金を両親に渡すときはとても幸せな気分に浸れた。勿論少しばかりのお金をくすねることは忘れなかった。これもあって僕は学校を暫く欠席しても充足感がえられた。 -続く-
読中感(読後感ではない):「DNA」ジェームス・D・ワトソン著 青木薫 訳 講談社 \2400 「DNA二重らせん構造」の発見でノーベル医学・生理学賞を受賞したジェームス・D・ワトソン氏が直接執筆した本。ワトソン氏の発見により遺伝子組み換え技術が大発展しました。 その中の一つ、蜘蛛の糸のたんぱく質を作る遺伝子を蜘蛛から取り出し、他の生物に組み込ませて大量の蜘蛛の糸を生産させることが理論的に可能になってきました。蜘蛛は糸を大量生産できません。
蜘蛛が虫を捕らえるために作った網の縦糸は、同じ重量であれば鉄鋼の五倍の強度があるのはよく知られています。米国国防総省は上記の研究に資金を提供しています。これは米国陸軍兵の防弾チョッキに転用する計画のようです。防弾チョッキだけではなく服飾などの繊維業界にも画期的な布地として出現するかもしれません。ナイロンなどと異なり、自然に優しい繊維として、廃棄処分をしても自然環境に悪影響を与えることは無いでしょう。カイコが生み出す絹糸と同じようなものですが、強度は絹糸とは比較になりません。
この本では「DNA二重らせん構造」、「遺伝子操作」などの分子生物学の分野で日本人教授の名前や大学、研究所はほとんど登場していません。これはとても深刻な問題です。何故かと言いますと日本より一歩先を進んでいる英米仏独露の分子生物学者がどんどん特許を取っており、さらにデユポン社等の強力な企業がこの特許を買い取り、極めて重要な医療分野で独占体制を確保しつつあるからです。日本の医学会や製薬界は多額の特許使用料を払う事態が発生し、最終的には一般の日本人が負担するようになるでしょう。 以上 November 28 追憶の旅 戦争が終わった翌年の1946年に僕たちは外地から引き揚げて来た。九州の田舎にあった祖母の家が戦災に遭わずにそっくり残っていたのでひとまずそこに落ち着いたが、中国その他の外地から引き揚げて来た叔父叔母や、日本にいたまま陸軍を除隊になった父の弟などとその家族が住み着いたので長くは居れなかった。
そこで父がジャワから復員軍人として帰国してから、西鉄駅前の「焼け野が原」にバラックを建てておでん屋を始めた。おでんやや食堂などは日銭が入る商売だったので、その日暮らしを続けるには最適な商売の一つだった。
バラックは広さ六畳くらいしかなかった。薄い杉の板で壁と屋根を作り、瓦の代わりに杉ノ皮を葺いただけだった。さすがに寝るところは布団が二枚敷けるくらいの床板が敷かれた。冬は木枯らしが吹き込み、朝目覚めると枕元にうっすらと雪が積もっていたし、梅雨時は雨水があちこちから漏れ出し、洗面器、やかん、たらい等で雨水を受けて床が濡れないようにした。
長じて東南アジアや南太平洋の国々を仕事で訪れたが、そこに住む人々の家のほうが僕のバラックよりははるかに立派だった。タイ王国などは米は年に三回も四回も取れるし、果物も野菜も魚もふんだんにあり、このような豊かな国がなぜ日本から多額の無償援助を受けているのか理解に苦しんだことがあった。
話を元に戻すと、おでん屋の仕事というのはお客さんがいる限り営業するので閉店は夜の一時、二時になるのはざらであった。そのため両親とも朝早くおきて僕たち兄弟三人に朝ごはんを作って学校に送り出すことはほとんど出来なかった。僕たち兄弟姉妹三人は朝起きて適当に食べ物をつまんで学校に行っていたが、僕たちも寝過ごすことが多くて、学校に着いたときはいつも遅刻で、授業中の教室の扉を開けて中に入るのがとても苦痛だった。あまり遅れると学校に行くのをあきらめて兄弟姉妹三人は町の広場で遊んで、適当に時刻を見計らって家に帰った。両親は僕たちがちゃんと学校に行ったと思っていた。
学校をサボって広場で遊ぶのもあまり面白くないので、長男である僕は責任上のこともあって映画を見ることにした。お金は無いので、映画館の傍で時間を過ごしながら、第一回目の上映が終わって、お客さんたちがまとまってたくさん出てくる出口に行き、お客さんたちにまぎれて、お客さんたちと逆行して三人とも映画館の中に入り、薄暗い中でいすを三脚確保して座った。やがて映画が始まったときは勉強もしなくてよかったので、本当に三人とも幸せいっぱいになった。
今にして思えば、映画館の出口の扉を開けてお客さんを外に出していたお姉さんが二人いたが、彼女たちは僕たちが無断で映画館の中に入ってゆくのを見ていたはずである。しかし僕たちを見逃してくれていたのであった。何十年も前の話だが僕は今でも彼女たち二人にとても感謝している。生きておられればもう八十歳過ぎになられているであろう。この二人の女性のおかげで僕は色々な場面で色々な人を見逃してあげることが出来るようになった。 -続く- November 27 Travelling 思えば、僕の半生は日本を出てあちこちとさ迷い歩いた半生だった。そもそも生れた所が、当時は日本の領土であった台湾だった。父は日支事変から太平洋戦争終了まで陸軍兵士として従軍し、ジャワで終戦を迎えた。その間、約10年。戦闘機のパイロットだった伯父は昭和19年にフィリッピンのサン・ホセ湾で米艦に激突して戦死した。まだ21歳だった。そして僕たち家族は台湾から引き揚げて日本に帰国した。
小さい頃から今に至るまで社会環境はとても厳しかった。幸せだったのは日本が高度経済成長を謳歌していた10年余りだけだったのか?。いつの日か幸せで平穏な老後を楽しめる日が来ることを夢見ていたが年金は減るし医療関係の社会保障も少しずつ悪いほうへ傾斜しつつある。
そして10兆円の借金を抱え、更に増えつつある借金で日本の国家財政は破局に向かって進んでいる。国家財政の破局を救う道は唯一つ、国民に買ってもらった国債を、国家権力を使ってチャラにしてしまう以外にはもう方法がないようである。最後のツケが市民に押し付けられている夕張市の財政破綻と同じである。楽しく平和な老後が訪れることはもう無いのか?
しかし今思えば、日本全国が「焼け野が原」となり広島、長崎の原爆の想像を絶する地獄から必死で立ち上がり、せめて三度の食べ物だけは確保したいと願いつつ粗末なバラックに住みながら頑張ったあの日々が一番幸せだったよう気がしてくるのは不思議である。 -続く- |
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